2010年03月27日

第3章:難波・ホークスのことなど

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■御堂筋番外編・難波そしてホークス

 難波。私は、この街の名を聞くと複雑な気持ちになる。

大阪市の南側の拠点都市の一つ。阪急の梅田駅と双璧をなす南海の難波駅。関空への玄関口でもあり次々と電車が発着する姿は大阪の活気を示す。
 難波駅の脇に、新しい商業施設「なんばパークス」がある。ガイドブックやネットで調べると大変に素晴らしい施設なのだろうと思う。
 でも私は一回も足を向けた事が無い。そこに行くと複雑な気持ちになるから泣きそうになるから。

 なぜなら、そこには

     「大阪球場」があったから

         「南海ホークス」があったから

 私は1973年(昭和48年)に生まれた。この年に南海ホークスはパリーグ優勝をしてから、1999年(平成11年)に福岡ダイエーホークスとして優勝するまで、長期間の低迷を続けた。
 私は、その長期間の低迷期の間に 南海ホークス のファンとなった。
 だから、私は 南海ホークス の絶頂期を知らない。杉浦投手が泣きながら手の血豆を潰しボールを血まみれとしながら、4連投して日本シリーズを優勝して、「涙の御堂筋パレード」をしたことは記録からしか知らない。

 野村選手、杉浦選手、廣瀬選手、穴吹選手、鶴岡監督といった往年の名選手や名監督は記録からしか知らない。
 そんなホークスファンの、ひよっこみたいな私が 南海ホークス について語るのは昔からのホークスファンの方から見たら生意気な、と思われるかと思いますが、若造の独り言として、お許し頂ければ幸いです。

 男の子は物心がついた頃から、なにかに興味を持ち、人によっては興味を持ったものを究めてそれを職業としたり、そこまでいかなくても一生付き合う事になったりする。

 男の子が興味を示す物の代表の一つが野球ではないだろうか。
関東ではジャイアンツ戦が、ほぼ全試合テレビ中継されており、男の子の大多数がジャイアンツのファンとなる。私も自宅で父親がジャイアンツ戦を見ていたから(でも父はカープファンだった)、野球のルールは大体は知っていたし球団名もジャイアンツ・カープ・タイガースなどセリーグの球団は知っていた

 でも、パリーグは当時は、まったくと言っていいほど知られていなくて、まだ野球に対して、さしたる興味を示していなかった私が知っていたのは、ライオンズぐらいであった。知っている選手も、ハラ・エガワ・カケフ・オカダ・ヤマモトコージ・キヌガサ・タブチ ぐらいで野球に熱中していた友達とは話が合わなかった。

 でも、きっかけは、出会いは、どこに転がっているか分からないもの。
小学校の3年生だか、4年生だかの頃、いつもは早く寝なさいとうるさかった両親が珍しく夜更かしをしていても何も言わなかった事があった。
 その時に、偶々見ていたのが当時、佐々木 信也さんがキャスターを務めていた プロ野球ニュース でした。その画面の中では野球の結果を伝えていた

 覚えているのは、白とオレンジのユニフォームを着ているチームが守備についていて、白とグリーンのユニフォームを着たチームのランナーが二人か三人出ていて、バッターボックスの右側には白とグリーンのユニフォームを着た他の選手よりかは、背が低い選手が入っている。

 白とオレンジのユニフォームを着たピッチャーがボールを投げる。
 白とグリーンのユニフォームをきたバッターが打ち返す。

 その瞬間にボールは夜空に高く舞い上がったかと思うと、グーンと伸びてそのまま誰もいない外野スタンドでポーンとはずんだ。
 ホームランである。間違えようのないホームランである。

 私は、そのホームランを 美しい 綺麗な ホームランだと思った。

そして興味を持った。このホームランを打ったのは誰なのだろう。この人が着ている白とグリーンのユニフォームはどこのチームだろう。人がほとんど居ない、この球場はなんという名前の球場なのだろう。

 ここまで見てこられた方は、大方分かった思う。
 白とオレンジのユニフォームを着ているチームは 日本ハム ファイターズ 白とグリーンのユニフォームを着ているチームは南海ホークス
 右側のバッターボックスに入ってホームランを打ったのは 門田 博光
 人がほとんどいない、でも夜空がきれいな球場は大阪球場

 これが私の人生の中で、初めての本格的な「プロ野球」と「南海ホークス」と「大阪」との出会いでした。

南海ホークスに興味を持った、僕はファンになっていきました。

やはり心から引かれたのは門田選手。あの豪快なフルスイング、体がねじ切れてしまうような空振り。そして勝負強さ。

 1986年(昭和61年)、地元の中学校に入学。
中学校には他の小学校からも仲間が集まってくるわけで僕にも仲間が出来た。そして、当然の会話が交わされる。

 仲間A 「ねえねえ、Bは野球はどこのファン?」

 仲間B 「え、おれはドラゴンズ。Aは?」

 仲間A 「おれはライオンズ。よっさんは?」

  僕  「おれは南海」

 仲間B 「えっ、南海!?南海って、あの南海ホークスの事!?」

 仲間A 「へぇー、変わっているねぇー・・・」

 そのうち仲間は友達に発展していく。友情が芽生えていく。友情が出来上がっていくと、会話に遠慮が無くなっていく。子供は無邪気だど、また残酷でもある。

 友達A 「やーい、南海また負けた。」

 友達B 「しっかし、南海弱いよな。南海とは何回戦っても勝てるよな」

 友達A 「ほんと、ほんと。南海は何回戦っても勝てないよな」

  僕  「・・・・・・(言い返す言葉なし)」

 かくて1986年(昭和61年)のシーズンも散々たる結果に終る。
 翌年1987年(昭和62年)のシーズン。

 この年の、南海ホークス は僕がホークスファンになってからの初めての4位。ニュースで、新聞紙上で見る、読むホークスは去年までとは違ったと思う。来年は、と期待した。

 そして、運命の1988年(昭和63年)。
この年のホークスは有力な外国人野手を二人も獲得し、若手も成長していた。
 オープン戦も好調。下馬評でも「充分に優勝が狙える」との声があり、僕も「ひょっとしたら、ひょっとするかも」とホークスファンとなって初めてのトキメキ・興奮を覚えてパリーグの開幕をむかえる。

 開幕初戦は西武球場でのライオンズ戦。ホークスの先発は西川投手。

西川投手はライオンズ打線を2安打に抑えるも、清家選手の決勝タイムリーを浴び、1-0で完封負け。そのショックを引きずるかのように、ホークスは開幕7連敗。ショックでした。

 しかしホークスは猛然と反撃にでる。連勝街道を走り始め、確か5月には門田選手が3戦で5ホーマーを放つなど、5連勝などを記録。

 そして、借金1でむかえた西宮球場での対阪急戦。

 その時、僕は関東地方で唯一パリーグの試合をほぼ放送していた文化放送を聞いていました。中継されていたライオンズ戦が終わる間際に、アナウンサーが「西宮ではホークスリードで9回の裏、阪急最後の攻撃です。」と。

 僕は「これで借金返済し、オールスターまでに貯金を7個位作り8、9月にはライオンズと決戦だ!!」と盛り上がって就寝する。

 翌日の朝刊のスポーツ面を見て、愕然としました。

「阪急 ブーマー サヨナラタイムリー 南海 借金 返済ならず」

頭を金槌で殴られる、とはこういう感覚なのだと初めて知りました。目の前が真っ暗になりました。こう思いました「今年のホークスは終わってしまった」

 この後、ホークスは緊張の糸が切れたかのように負け続け、そしてダイエーへの球団の身売りと繋がって行く。
 僕は、迷った。ホークスのファンを続けていけるだろうか、と。
ダイエーに名前が変わってしまうホークスを好きでいられるのか、と。

 そして、南海ホークス としての最後の大阪球場での公式戦。

相手は近鉄。4-1で南海が勝つ
 試合が終わり、杉浦監督のスピーチが、僕がホークスのファンである事を決定づけました。

 杉浦監督は、大阪球場を埋め尽くした大阪の人達に向かってこう言いました 「行って参ります」、と。なんとスゴイ言葉なのか。

この年2回目の、頭を金槌で殴られる感覚でした。だって、普通は最後だと「ありがとうございました」とか「さようなら」って言いますよ。当時15歳のガキでも社会の常識、言葉は分かる。
 それが「行って参ります」、と。
私には、この短い言葉に今までお世話になった大阪に、大阪の人々に最大限の感謝の気持ちを込め、そして新天地の福岡で頑張ります、という過去と未来の両方への気持ちが詰まった言葉に思えたのです。

 そして、僕は思いました。
「杉浦監督の言葉を信じよう。新天地へ旅立つホークスについていこう」と 紆余曲折、アップダウンばかりのホークスファンとしての歩みですが、ホークスのファンであって良かったと思います。そして、これからも。
ただし、残念無念なのが「大阪球場」で「南海ホークス」の試合を一回も見れなかった事。いや、「大阪球場」そのものも一回も見れなかった事。本当に残念で悔しいとさえ思う。

 だから私は「なんばパークス」へは足が向かない。
 私から「大阪球場」を、そして「南海ホークス」の残り香さえも奪ってしまたから。

■番外編・ファイターズ優勝おめでとう

日本ハム ファイターズ、優勝おめでとうございます。

 ファイターズ ファンの皆様、誠におめでとうございます。

 前にも書き込みましたが、私はホークスのファンです。だからパ・リーグの優勝を逃したのは今でも悔しいし、残念です。

 また今年からプレーオフのルールが変わり、一位通過チームには無条件で一勝分のアドバンテージが与えられ、ファイターズは、その恩恵を受けられて優勝出来たのが、少し心に引っかかります。

 ホークスは去年の一昨年と一位通過しながら、2位に5ゲーム差をつける事が出来ず、アドバンテージが受けれず敗退しました。
 今年のルールであれば、ホークスは優勝出来たのに・・・。釈然としない気持ちもあります。

 でも、北海道のファイターズのファンの皆さんの必死の応援と優勝を決めた時の姿を見た時に、ファイターズが優勝出来て良かったと思いました。

 思えば北海道は、この10年あまり本当につらい、苦しい時代を過ごしてきたと思います。97年の拓銀の経営破綻により北海道経済は大打撃を受けました。その後も景気回復の恩恵をずっと受けられずに苦しみを味わってきたのだと思います。

 札幌ドームでのゲームで、ドームがゆれるほどの大声援を見ていると、苦しみを、いやと言うほどあじわってきた北海道の人々の魂の叫びをを聞いたような気がしました。

 そして、大阪に本社をかまえる日本ハムさんが本当に良い事をされたと思う。東京では一旗上げる事が出来ませんでしたが、北海道に思い切って球団を北海道に移した事は大正解だと思う。これからはホークスとファイターズでパ・リーグをひっぱていければ嬉しく思います。

(平成18年11月23日作成)


posted by 松村和弘 at 20:16| Comment(0) | 上阪感想記:1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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