2010年05月12日

大阪遷都計画と舎密局

大阪遷都計画と舎密局
(2008年12月30日の記事を加筆再録)

舎密局(せいみきょく)はわが国の高等教育の黎明期に最初に設立された機関で、大阪に設立されました。明治新政府の直轄事業として建設に当りましたが、東京遷都が決まり工事は中断しました。
舎密とは理化学の意で、当初江戸に設立される予定の理化学校を、大久保利通の大阪遷都計画にそって、大阪に移して開設されることになったのです。
明治元年10月4日に起工されましたが、この年7月東京遷都が決まり、明治2年3月に天皇も東京に移られ、大阪遷都の夢は消えてしまいました。このため中断していた舎密局建設は明治2年大阪府管轄となり工事再開、同年5月1日に開校しました。

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写真:大手前の舎密局跡石碑

大阪か江戸か遷都が揺れ動くなかで、舎密局は明治政府の初期の政策の変遷につれて変革を迫られ、きわめて短命に終わりました。
開校の翌年の明治3年には校名が理学校、ついで理学所から開成所と変わり、明治5年に定められた新たな学制によって舎密局は閉鎖され、人材も物品も東京に移されて、後の東京大学開設に資することになったのでした。
大阪の舎密局はその後普通教育機関の第一番中学校から第三高等中学校となりましたが、約20年大阪にあって、明治22年に京都に移転し旧制第三高等学校となりました。京都大学のHPの沿革を見ると、明治2年5月「大阪に舎密局開校」と明確に書かれています。
これを見ると、日本の高等教育機関の嚆矢、東京大学、京都大学の前身・源流はじつは大阪の舎密局だったのがわかります。
大阪は遷都争いに敗れた結果、その後の政府の大阪の扱いは、手のひらを返すように、意図的に冷遇になったことは近代の歴史が物語るところです。

以上が、今日一日で調べた大阪遷都にまつわる舎密局関連の変遷です。造幣局も大阪に設立されたのは同様の事情があったのかもしれませんね。
これまで、よく親戚などが集る機会があると、決まって都市談義になったものです。「大阪はどうの、東京はどうの、京都はどうの」というわけです。
そこでよく聞かされたのは、大阪は旧制高校のナンバースクールから外れ、大阪帝国大学もいちばん最後というテイタラク・・・云々。
反論もできず、くやしさに涙目の思い出です。
そのくやしさが、こうしてここに書く原動力になっている。やっぱり黙って見過ごすわけにはいかん。




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posted by 松村和弘 at 12:09| Comment(0) | 大阪史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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